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"沖縄の南洋移民の話は私がちゃんと次の世代に渡していかなければいけない"

Read the interview in English.

Portrait of Akiko Mori

京都にある同支社大学グローバル・スタディーズ研究科<奄美ー沖縄ー琉球>研究センターに研究員として在籍。関西の大学を中心に非常勤講師として教育活動にも携わっており、関西大学文学部では2016年度から2020年度までの5年間、「沖縄・琉球文化論」のコースを担当されていました。昨年沖縄コレクションに寄贈してくださった二冊の証言集「複数の旋律を聞くー沖縄・南洋群島に生きたひとびとの声と生ー」(2016年11月)、「はじまりの光景ー日本統治下南洋群島に暮らした沖縄移民の語りからー」(2017年12月 )では、沖縄から旧南洋群島へ渡った沖縄の人々約100人の移民経験や戦争体験がまとめられています。その他、発表論文には、「複数の旋律を聞く:サイパン島に暮らした沖縄の人々の語りに映る他者の存在」(平和研究 2020年2月)、「A History of the Excluded : Rethinking Sugar Industry in the Northern Mariana Islands under Japanese rule」 (Historische Anthropologie 2019年12月)、また、「太平洋諸島の歴史を知るための60章」(2019年12月)の中では、沖縄ー南洋移民の移民・戦争体験についてのコラムを担当、また同書で、人気のコミック「ペリリュー -楽園のゲルニカー」の書評も書かれています。現在、 京都大学に提出する博士論文を執筆中です。

インタビュー日時:2020年9月26日
収録場所:Zoomにて
オリジナル言語: 日本語
聞き手&書き起こし:佐藤光代 (佐藤)

ハワイやブラジルへの移民ほど語られていない南洋群島への沖縄からの移民

[佐藤]     南洋群島に渡った沖縄の人達の証言集を出していらっしゃる方って、他にいらっしゃるんですか。

[森]     個人ではいないですね。ただ、南洋群島だけじゃなくて、ハワイ、ブラジル、フィリピンなど、海外で暮らしている二世三世の人へ聞き取りした内容が、沖縄県内の市町村史の『移民編』『戦争編』には、たくさん収録されています。沖縄県内の全市町村史を私が調べたところ、南洋の引き揚げ者の話が合わせて一千人ぐらい、『移民編』とか『戦争編』のところに入ってるんですね。中でも旧具志川、今うるま市になっていますけど、具志川市であったころに出された『具志川市史』の移民編・戦争編には、南洋群島の引き揚げ者の証言が一番多く収録されています。そういう形で、証言が集められる以外は、個人で私みたいにああいう形で証言を出すということ自体がほとんどないです。

[佐藤]    沖縄の移民と聞くと、ハワイだとかブラジルを思い出すんですけど、1940年ごろの移民数をみると、ブラジルやハワイなんて二万人にも達していないのに、南洋には五万人以上、すごい数の沖縄の人たちが移民なさったんですね。びっくりしました。

[森]     そうなんですよ。多いんだけど、海外に移民した人たちは子孫が残ってらっしゃいますよね。三世、四世の世代になってると思うんですが、そういう形でおられる人たちが世界のウチナンチュ大会とか、沖縄に来られて、存在にかなりインパクトがあるというか。だけど、南洋とか、フィリピン、満州、台湾に行った人たちっていうのは、日本の植民地だったり、勢力圏に日本人として移民した人たちなので、日本の敗戦と同時に強制的に沖縄へ引き揚げなくてはならなかったんですね。結局、現地に残った人が現地女性と沖縄の男性との間に生まれた子ども以外は、残っていないんです。だから、南洋など外地への移民というのはある特定の世代の人の体験でしかなく、海外に移民した人との違いは結構大きいだろうと思いますね。

[佐藤]    それがゆえに、あまり注目されていないということですか。

Statue surrounded by palm trees

[森]     そうですね。海外移民よりは注目されない。やっぱり植民地の問題ということ自体がすごく語られづらいし、基本的に日本社会は植民地を忘却してきたので、例えば本土だったら満州に開拓民で行った人が多いですが、そういう人たちも日本に引き揚げてきたときに、植民地支配の手先として行ったんだろうと、冷たく当たられたという語りが最近よく聞かれます。戦後になってそういう体験が引揚者の存在ごとすっかり日本の歴史から切り離されてしまって、都合の悪い歴史として、明らかにされずにきたというのが今だと思うんですね。沖縄の歴史の場合には、被害の歴史がすごく重いので、沖縄の人たちが、南洋群島で現地の人の上に立つような体験というのは、扱われにくい。南洋群島での戦争体験については、サイパン・テニアンでの集団自決など、県内のマスメディアでもよく取り上げられるのですが、それに比べて、戦争になる以前に沖縄の人びとが南洋群島でどの様な暮らしを営み、他府県から移民した人や朝鮮の人、現地の人とどの様な関係を築いていたのかに関しては、きちんと明らかにされてきませんでした。

辺野古で出会ったおばあさんたちとゆんたく

[佐藤]      歴史から忘れられたような、そういう分野に森先生が入っていったきっかけって何なんですか

[森]     きっかけは、修士論文です。私は南洋群島がどういうところだったのかとか、沖縄の人たちがたくさんいたとか、日本が支配していたというのは全然知らなかったんですけど、修士論文を書かないといけないというときに、沖縄にふらーっと旅に行って。もともと沖縄には高校の修学旅行で初めて行って、スキューバダイビングに行ったりとか。  

[佐藤]     研究ではなく、レジャーで?

[森]     そうです、レジャーで。大学のサークルで。大学が京都だったんですけど、スキューバダイビングのサークルがあって、それで久米島にもぐりに行ったりとか、座間味島に行ったりとかしてたんですね。だけど、高校の修学旅行で沖縄に行ったときに、沖縄戦の話をガマで聞きかせてもらって、基地の問題についても、嘉手納基地を見学して話を聞かせてもらっていたので、スキューバダイビングで楽しいところだけ味わって何もせずに帰ってくるというのが、関わり方として違うんじゃないかなと思って、一人で沖縄本土南部の戦跡をまわったりとかするようになったのが、大学の学部時代なんです。 

その後、修士の時に沖縄に行ったときに、私は一体これから何をするんだろう思ったんです。学部の卒業論文は沖縄とは全然違う富山県の調査を行ったんですけど、修士は沖縄のことをやりたいと思って、だけどテーマは何にしよう?と思って。ちょうど辺野古の座り込みが始まって何年か経っている時で、今、沖縄にこういう問題があって、おじいさんおばあさんたちが座り込みをしてるから、沖縄に興味があるんだったら行ってみたらって友達に教えてもらったんですね。その時は、まだ新聞に辺野古のことが載ることはほとんどなかった時代、知られていないときに、ふらっと行ったら、そこで私みたいな人が何人かいて(笑)、若者で、バックパッカーみたいな感じで、辺野古に問題があるらしいと思ってきたら、辺野古には沖縄の各地の人たちが座り込みにきて、協力している人たちもウェルカム!という感じで、一ヶ月ぐらいいたんですね、辺野古に。

[佐藤]     結構長いこと!

[森]     長いこと!今は陸に架かるように作られていっていますけど、その時は海上に基地を作るという、完全に海上基地案だったので、櫓が立てられているところまで、カヌーで毎朝出て行くのに乗せてもらって、カヌーとか船とか。櫓に連れてってもらって、みんなで。今みたいな攻防みたいなのがほとんどなかったんですね。とにかく櫓を守るっていうことで。座り込みに行って、お昼になったらお弁当を届けに来てくれるので食べて、そこでシュノーケリングしたりとか。

[佐藤]     そこで南洋から帰られた方とお会いになったんですか。

[森]     そうなんです。それで、海上の座り込みがなくて、陸で座り込みをした時に、ちょうど、櫓が台風かなんかでなくなった時で、沖縄の中部の方からおばあさんたちが辺野古に座りに来られて、ずっとゆんたく(1)、おしゃべりをするんですよね。

で、私が沖縄戦のこと、昔のことにも興味があって修士論文で勉強したいと思ってるって言ったら、十人いたおばあさんの中の八人が南洋からの引き揚げ者の方たちで。みなさん、沖縄本島中部のうるま市の石川っていう地域から座り込みに来られていたんですね。石川は、沖縄戦後に最大の民間人収容所が作られて、沖縄諮詢会という住民代表組織が置かれたので、沖縄戦後史が始まった場所と言われるところなんですが、そこは、戦前から南洋移民がすごく多く、南洋から引き揚げてきた人もたくさんいたんです。 そこから座り込みに来たおばあさんたちが、「沖縄戦も大変だったんだけど、サイパとかテニアンとかも大変だったんだよ」って、ワーッと、八人のおばあさんたちが話して。沖縄戦を体験した人は沖縄戦の話をしながら、すごい話をしてくれて、ほとんどおばあさんたちがしゃべってたという感じですけど、あーこんなことがあったんだと初めてわかって。沖縄戦があったから、おばあさんたちは今の基地建設に反対しているんだという頭しか私の中にはなかったので、新しい地図が頭の中に広がったような感じ。

こんなたくさんの人が体験したことなのに、なんで歴史の中に書かれてこなかったんだろうと思ったんですね。それで、これはちょっとやってみたいなと思ったのが、はじまりです。修士論文は、辺野古のことで書こうと思ったんですけど、やっぱり現在進行形の問題だし、私が「本土」から来て間もない人間で、人間関係もできていなかったので、すぐに地域の人たちに話を聞かせてもらうといことは難しかったというのもあってて、ちょっと違う角度からだけど、南洋からの人の話を聞くことも、今の辺野古の基地の問題につながってくるんじゃないかという気がして調べ始めたんです。

証言収集に本腰を入れて沖縄に引っ越し

Blurry photo of people looking at something

[佐藤]      森先生は沖縄出身ではないんですね?

[森]     広島です。

[佐藤]     いわゆる「本土」の人間が南洋の話を聞くというのが難しかったということですか。

[森]     そうではなくて、その頃には辺野古の新基地建設について聞くのが難しかった。辺野古の今の問題、やっぱり「本土」の側に問題があるので、話をお聞きするのが難しくて、南洋の話を聞くことにした。それだと、過去の出来事なので、戦争の話とか、過去どんなに暮らしていたかってことで、話してもらえました。拠点を辺野古から石川に移して、南洋の話を聞くようになったんですけど。

[佐藤]      さっき南部を回りながら、一ヶ月ぐらい滞在なさったっておっしゃっていましたけど、沖縄には森先生が出版なさった2冊の本で150、200人ぐらい、たくさんの方にインタビューなさったんですよね。それらのインタビューを行うために、沖縄には何度も何度も通われたわけですか。

[森]     そうですね、辺野古での出会いが2006年の夏だったんですけど、南洋の話を聞かせてもらうって言っても、その時点でもう南洋からの引き揚げ者の人たちは高齢だったんですよね。私は毎年、一年に一ヶ月の滞在を二回ぐらい、つまり一年に二ヶ月ぐらいは沖縄の中部に滞在して、そこから、いろいろ、本部町とか宮古島にも。どうして本部町や宮古島からたくさんの人が南洋群島に行ったかというと、それはつまり漁民としてパラオ等に行った人が多いのです。私は沖縄本島中部に拠点を置きながら、各地をバイクで回って聞き取りをしました。だから、2009年までは一年に二ヶ月ぐらい、夏とか春に滞在して、いよいよこれではもう間に合わないとなった時、2010年に一年住みました。

[佐藤]     どちらに?

[森]     石川です。その時は、ほとんどインタビュー内容の確認と本に載せてもいいかという許可をとるということをやりました。

[佐藤]     大変な作業を経て出来上がった本ですね。胸がつまるような沖縄戦の証言とちがって、南洋からお帰りになった人の証言は、例えば、お給料、学歴の話だとか、普通の生活の場面が描かれている。家族構成なんかもよくわかりますし、悲しくなる話もあるんですけど、プッと笑ってしまうような話も出てきたり。この本には何人ぐらいの証言が載っているんでしたか。

[森]     一冊目に五十人と二冊目に五十人で、計百人です。全部の聞き取りは百五十人ちょっと。

[佐藤]     全部載せる場所もないし、やっぱり載せてほしくない方もいるでしょうしね。

[森]     そうですね、ほとんどは載せてもオッケーで、断られることはほとんどなかったんです。ただ、特に南洋で赤ちゃんだった世代っていうのを頑張って聞こうとしたんですけど、難しかったです。そういう人たちは、最初は「来てもいいよ、話すよ」と言ってくれて、聞きに行くんですけど、話始めると、もうほとんど泣いているようなことが結構あって。それは、どうしてなのかというと、南洋では戦争だけしか体験してないんですよね。なので、あとは、どこで何をしたっていうのが答えられない。親も亡くなっていたりするので、結局、親からも何も聞いてなくて、体験としてはあるんだけど、それがどういう意味をもって、なんでそこにいて、どういうふうに逃げて、今ここにいるのか、を私が聞いても答えられないから、話すことに積極的ではない人も多かったです。

[佐藤]     記憶の中で、物事のつながりが、もう途切れているんですね。

[森]     そうですね。位置付けられない。それは沖縄戦だったら違うんですよ。沖縄戦でも赤ちゃんの時に体験している人がたくさんいますけど、やっぱり目の前に自分たち家族が逃げ回った場所があるので、あとでその場を訪ねてみたり、いろんな人から話を聞いたり、沖縄戦の本もたくさん出版されているので読んで、ああこういうことだったんだなっていうふうに理解できるんですけど、南洋の場合は、それが全部ないわけですよね。南洋群島慰霊墓参団に参加して、サイパンやテニアンで逃げ惑った場所を訪ねようにも、記憶が曖昧だからどこに行ったらいいかわからないし、南洋の歴史を書いた本ってほとんどないので、照らし合わせて理解することもできない。

あとは、結構戦争の体験の話になって、赤ちゃんって一番弱くて殺される立場に置かれてしまっていたので、家族の関係自体が壊れている場合もあるんですね。つまり、親がもしかしたら自分を殺したかもしれなかったっていう。下の兄弟は殺していたりとか、殺さざるをえない状況になっていて、自分だけは助かったんだけども、戦後一緒に引き上げてきても、家族生活がうまくいかなかったという方もいらっしゃった。本当にいろんなことがあったんだ、っていう感じは、私はあとで解釈してわかってきました。戦争の体験しかしてないから、本当にもうフラッシュバックのような形で記憶が蘇ってしまう。

今の米軍基地の問題とも関わりますけど、沖縄本島の中部も結構米軍機が飛ぶんです。聞き取りをしていても、中断される場合が結構あったんですね、その騒音で。聞き取りのお願いに行った時に、戦闘機が上空をと飛んで音がすると、本当にその時に引き戻されてしまう。南洋では辛い戦争体験しかしてないから、絶対に話さないって言って、家の前で断られたこともありました。そういう断片的なお話でもいいから、どういう体験なのかを聞かせてほしいって言っても、絶対に無理だと。

洗面器で顔を洗えない亀一さん

[佐藤]      証言集を読ませてもらっていると、子供を殺すだとかいう息のつまるような場面も出てきますよね。森先生は、しまくとぅば、というか、そういう言葉をインタビューの所々に入れながら、お話なさっていましたね。収容所って、しまくとぅばで何でしたっけ?

[森]     あ、インヌミヤードゥイ(2)

[佐藤]     そんなことばだれから教えてもらったの?っていうお母さんがいましたね。沖縄出身の人って聞かれて、沖縄にお嫁さんになってきたの?って。

[森]     そうそうそう、最初に自己紹介しているんですけど、途中で忘れられてしまって、「あんた沖縄の子じゃなかったねー」みたいなこともありました。

[佐藤]     80代後半だとか90代のお年の方ですけど、話し始めると、饒舌に、次々とお話になって、引き込まれます。すごく印象に残っている人っていらっしゃいますか。

[森]     印象に残っている人は本当にたくさんいます。南洋の引き揚げの人の場合には、名簿がないので、地域の色んな人を頼って、証言者を探し出していくのですが、

[佐藤]     名簿がないんですか。

[森]     ないんです。海外移民だったらパスポートがあるので、誰が行ったってわかるんですね。

[佐藤]     自治体史のようなところにもリストは載っていない?

[森]     それらを公開している市町村と公開していない市町村があって、最初に挙げた、具志川市っていうところは、外地引き揚げ者に対する政府からの給付金があった時の書類から、地域の誰々がどこから引き揚げたっていう情報を名簿として公開しているんですね。

[佐藤]     じゃ、それ以外のところはわからないということですね。

[森]     具志川市以外の引き揚げ者に関する情報はわからないことが多いです。完全に伝手で。だから公民館に行ったり、民宿の人に聞いたり、あとは資料館にいくと絶対地域の物知りおじいさんみたいな人がいるので、そういう人と仲良くなって家まで連れて行ってもらったりするんです。だから、聞き取りのプロセス総てが出会いの連続みたいなもので、印象に残っている人を挙げ始めたらきりがないのですが、敢えて言うなら二人います。一人は石川でお世話になった民宿の人から紹介してもらいました。「あの家のおじいさんは、亀一さんって言うんだけど、南洋のトラック島というところから帰ってきたらしい。でも自分は詳しく聞いていないから、あなた行ってごらん」って。で、行ったんですね。そうしたら、「あ、トラック島から帰ってきたよ」って、ポケットからすぐにパスケースみたいなものを出して、赤ちゃんの写真を出して見せてくれたんですね。百日写真といって、生まれて百日目に撮る写真があって、二人の赤ちゃんのものをみせてくれたんですね。

People looking at the ocean

それで亀一さんが言うには、この二人は、戦中にトラック島から引き揚げる船に乗せたのだけど、米軍に沈没させられて死んでしまったんだと。この子供二人だけでなくて、妻ともう一人の子ども(合計四人)を乗船させたんだけど、みんな溺死してしまったんですね。それでトラック島に残っていた自分は上の二人の写真だけ持って、戦後一人で沖縄に帰ってきたって言われたんですね。

その人の家は民宿からとても近いので、家の前を通るたびに挨拶をして、今日はお話聞いてもいいですかってよく訪ねて行っていたんです。最初に出会った時、その方は90何歳かだったんです。その年になっても忘れられないほど、本当に悲しい体験だったんだろうなと聞かせてもらっていたんですが、話自体がすごくおもしろい方だったんですね。

私が2010年に、証言を出来る人がどんどん亡くなられるから、住んで話しを聞こうと決めた直前に亡くなられたんですね。とても悲しくて。その方は引き揚げた後に養子をとられて、その息子さんの奥さんがお世話をされていたんですけど、その方に話を聞かせてもらったら、亀一さんは引き揚げてからしばらくは洗面器で顔を洗えなかったと 話していたらしいです。なぜかというと、洗面器に水が溜まっているのを見ると、目の前で船が沈没させられて溺死してしまった、助けられなかった妻子を思い出す、と。自分があの船に乗せなければ戦後に沖縄に一緒に帰れたのにっていう自責の念もあって。 

私にはそういう話はされなかったんだけど、ご家族はいろんな体験を聞かれているんだなって。私に対してはさらっと赤ちゃんの写真だけ見せて、あんまり悲しさを表現されず、あとはトラック島でのお給料がどうだったとか生活の話を主にされたのですが、あ、そんな思いでおられたんだなって。亀一さんが亡くなられた後、初めてご家族にこんなことも言っていたよって聞いて。印象深かった人ですね。

今聞かなければこの人たちの存在が忘れられてしまわないように

[森]     印象に残ったもう一人は、サイパンで地上戦になったときに、お母さんを艦砲射撃で失ったり、歩けなくなったお姉さんを置いて逃げないといけなかったり、最後まで頑張って引っ張ってくれていたお姉さんを集団自決で亡くしてしまったという、本当に大変な戦争体験をした人です。二人の妹たちももそのお姉さんと一緒に集団自決の輪に入れられていたんですが、奇跡的に助かって、その人自身は「死にたくない」っていって自決の場から離れていて一部始終を見てしまったという。その後は自分が弟妹を引き連れてサイパンのキャンプまで行って、沖縄まで引き揚げてこられたんですが、本当に話したいっていう気持ちが強い方で、最初からすごく協力的な方でした。それで修士論文をまとめた後、論文ってちょっとしかお話を引用できなかったりするので、その人のライフヒストリーをそれぞれ冊子のような形でまとめて、修士論文と一緒にお渡ししたんですね。そうしたら、喜んではくれたんですけど、やっぱり自分で書きたいと思ったらしくて、書こうとしたんだけど、途中で頭が痛くなって、書けなくなってしまったんだって言われるんですね。

[佐藤]      自分史を書くというのは大変な作業ですね。

[森]     そうです。大変な状況の中、移民して、帰ってこられているので、教育を受けたりとか書いたりするということを機会もなかった方なので、ハードルが高かったようです。私の方では、この方には何度もお話を聞いてきちんとまとめられたという気持ちがあったのですが、彼女にとってサイパンでの体験は、どんなに話しても話しきったとは言えない、終わったことはできないような強烈なものだったのだと考えるようになりました。

その人とは初めての出会いからもう15年ぐらい経っているのですが、折に触れてお元気ですかって訪ねて行ったりしてはして。そしたら、もうだんだん認知症になられて、もう耳も聞こえないから、人と話すこともできない。ご家族には、「行っても無駄だ」って言われたんですけど、会いにいったんですね。そしたら、私がよくお話を聞きに行っていた頃よりも痩せていたので、最初は誰だか分からなかったみたいだったので、証言集を見せて、もう耳も聞こえないからとにかく一緒に写ってる写真を見せて、「私、森です、これです!これです!」っていったら「あ〜」っていうふうになって。その後その人が、私の顔をまじまじと見ながら、「夢みたい」って言ってくださったんですね。

[佐藤]     森先生がまた会いにきてくださったことが?

[森]     そう、また会えたことが。それからさらに2年ぐらいして、ご家族と一緒にその方に会いに行ったときには、私だっていうのはすぐに分かってくれたんですが、もう話すこともできないような状態だったんですけど、私だっていうのはわかってくれて。その前に一人で会いに行った時に「夢みたい」と言ってくれたのがほとんど、きちんとやりとりできた最後というか。それで、「死にたくない」という気持ち一つでサイパンから生き延びて沖縄に帰って来たその方に、私が出会えたことそのものが今から思えば奇跡のような出来事であったということや、最初の頃にサイパンにいた頃のことをかなりの密度で話してもらえた時間というのは本当に貴重なかけがえのないものだったのだ、ということに改めて気づくというか。「夢みたい」という言葉にいろんなことが凝縮されているように感じました。

[佐藤]     森先生が証言集の中でおっしゃっていますね、「今語らないとその人たちの存在が忘れられてしまう」って。あと10年早かったらもっと話も聞けたのに、って。この証言を集めて書くということに覚悟みたいなものがいろんな過程を経て、生まれてきたわけですか。

[森]     そうですね。 

[佐藤]     森先生しかいらっしゃらないじゃないですか、この南洋からの方達のお話しを聞いている人って。

People in front of a japanese banner

[森]     他にも研究者で聞き取りをされている方はいらっしゃるんですが、数人ですね。私の場合、一生懸命人に会いに行って、できるだけ漏らさずに聞こうっていうふうに思っていたんですが、その体験の重みは今になってようやくわかってきた気がします。覚悟って言ってくださったんだけど、私がちゃんと次の世代の人に渡していかないとっていう覚悟は、お話を聞かせてくださった方との別れを通して、だんだん湧いてきたような感じなんです。

[佐藤]     インタビューする方たちのいくつか世代を区分なさっていました。一番最初の人たちは、もうお話を聞けない世代で。

[森]     そうなんです。 

[佐藤]     で、若い世代になると、さっき先生がおっしゃったみたいに、覚えていない。

[森]     そう。赤ちゃんのころでしたから。

[佐藤]     ということは、すごく貴重な世代、この方たちのお話を今聞かないと、もうお話は二度と聞けないという世代に先生はアプローチなさったんですよね。

[森]     そういう出会いがなければ、私は研究者になっていなかったですね。

現在の若者たちが琉球・沖縄を勉強する意義

[佐藤]     今、大学で教えていらっしゃいますけど、やはり南洋のお話はなさいますか。

[森]     はい、授業の一部で。

[佐藤]     学生からの反応、いろいろありますか。

[森]     そうですね、全然知らなかったという人が多いです。あと、バンザイ・クリフとかは知っているんですけど、移民はどういう生活だったのかは知らなかった意見が大半ですね。ピンポイントですごかったのは、ある年の受講生の中に、おじいさんがサイパンで生まれた赤ちゃん世代だったという学生がいたことです。

[佐藤]     へー、その人は沖縄出身の学生ですか

[森]     沖縄の出身じゃないんです。数としてはすごく少ないのですが、実は全県から行っているんですね、南洋群島には。移住した人の6割が沖縄の人で、あとは4割が他府県出身者なんですね。授業でも世代の話をして、赤ちゃん世代というのが証言世代とみなされずに今まできて、見えない世代になっているんだっていう話を授業でもやったんです。

その子のおじいさんがその世代にあたる赤ちゃん世代。だからそのおじいさんはそのお姉さんに聞いたりとか、周囲に聞いてサイパンでどんなことがあったのかを理解していたようだという風にレポートに書いてきてくれたんですね。その学生は歴史学のゼミに参加していて、そこではオーラルヒストリーっていうのは記憶だから、曖昧で、信用できないっていうような考え方をしている人が大半らしいんです。でも今日の授業を聞いたら、オーラルヒストリーを文書史料と並べて、嘘かほんとか証拠になるかならないかという基準で考えるのはおかしいというのがわかったと。その人たちがどんな体験をして、今どんな思いで今いるかっていうことを当事者から聞くことができるという所に、オーラルヒストリーの醍醐味があるのだから、そういうものとして評価しないといけな いということをゼミの場でも言いたいと書いてあった。

そういう反応があると、あ、よく伝わったなという感じがするというか。ふつうは南洋に沖縄から行った人というとすごくイレギュラーな形で見られるんだけど、その中で私はさらに世代を分けていて、どんなふうにその中で体験が違うか、戦争による傷のあり方がちがうのかっていう話しをするから、ま、複雑かなあと思いながら話してはいるんですけど。

[佐藤]     その学生も孫の世代にはいって、どんな話を今まできいて、これからどうしたいかというような世代にはいったんですね。

[森]     そういう話を聞くとすごく嬉しいなというふうに思いますね。

[佐藤]     先生のクラスのシラバスを見せていただきましたけど、古琉球から全てですよね、全てをカバーするの大変だと思うんですけど。

[森]     大変でしたね、

[佐藤]     学生が興味がある時代だとかペーパーを書いたりすると思うんですけど、選んできたトピックでなかなかおもしろいなと思ったことなんてありますか。

[森]     今回反応が多かった、おもしろかったという意見が多かったのは講義の最初の回です。琉球列島そのものがどう作られてきたかという話をしてるんですけど、つまり中国大陸、アジアが全部つながっていたときから、地殻変動がおきて、琉球列島らしきものができてくっついたり離れたりして、そこに鹿だったり象だったりが移ってきて、というような琉球列島そのものの形成の歴史から話をはじめるんですよ。そうすると、「そんなこと考えてみたこともなかった」と(笑)。沖縄というのはずっとそこにあるものだと思っていたから大陸がつながっていて、生物のつながりもあるし、人の繋がりも見えたのがおもしろいと。その後、中国の関係の中で交易がはじまったりするという話をすると、そもそも最初は繋がっていて大陸の一部だったというのが面白かったという反応が多かったです。大交易時代、それこそ高良倉吉さんのご研究で古琉球の大交易時代というのは高校の授業で聞いたことがある学生は多いのですが、そもそもくっついていたものが離れて、その後に再び交易を通して繋がったのだなあというところまで見えてくると古琉球の世界が前の時代との関係の中で位置付けられるし、人の活動がすごくダイナミックに見えるというか。

沖縄の人々の視点から歴史を見る大切さ

[森]     あと泡盛の話も人気でした。泡盛を通して、沖縄の近世の歴史をみていこうと。それまでは琉球王国がどの様に成立したのかという政治史の話や、中国や東南アジアの交易の話だったりするんだけど、その回では泡盛を通して政治史や交易史を総復習するという回なんです。泡盛がタイを通って南からきたのか北からきたのかがよくわかっていないんだよということや、琉球独自の泡盛製造方法ができあがっていく過程だったりとか、本土との交易の中で泡盛が実は政治的に重要な意味を持っていていたのだとか。近世には日中両属の状態に置かれて、特に薩摩支配が厳しかったわけですが、その中で、琉球の人びとがどんな風に独自性や主体性を発揮していったのかを泡盛から見るとおもしろいんだよーという話をしました。それも人気でしたね。沖縄独特の、美味しいお酒だとか、アルコール度数の高いお酒だとかいうことは知っていたけど、政治状況や交易関係などの環境に揉まれながら「琉球泡盛」というものが歴史的に創り出されていった過程については考えたことがなかったと。

 大阪の大学なので、沖縄料理店でバイトしていたり、おじいさんおばあさんが沖縄や奄美の出身だったりとか、あとは台湾の出身だったりする学生が結構いるんですよ。それに全体としては関西圏の学生が多いけど、最近は格安航空で頻繁に沖縄に旅行に行っていたりして、琉球沖縄の風物に触れている学生も多いんですよね。

[佐藤]     沖縄になんらかの興味のある学生が受講しているっていうことですね。クラスを通して、学生に知ってもらいたいと思うことはありますか。

[森]     そもそも日本本土では、沖縄の歴史を琉球列島の形成から現在まで通しで聞く体験って人生の中でほとんどないと思うんですよね。高校まででも、沖縄戦、基地問題、あとはちょっと中世とか近世の授業の中で交易の話がでてくる程度で継ぎはぎの知識しかない。中には琉球王国があったっていうことも知らない学生もいるんですね。沖縄の人がどんな風に自然と付き合い、大国に揉まれながらもどんな風に新たな歴史を紡いできたか、台湾、フィリピン、南洋群島の様な小さな島々の人とどんな関係を築いてきたのか、ということを長いスパンで考える機会がない。私の授業では、沖縄の人の視点から見たら、それまで当たり前だと思っていた歴史観や現在がどんな風に違って見えるのかを体験してほしいというのが一つのメッセージなんです。通常は日本史や東アジア史、アメリカ史、太平洋史の一部として扱われる出来事を、沖縄の人の目線から捉え直していくと、どんな風に世界が違って見えるのか、それを体験する機会自体をつくるということですね。

[佐藤]     点、点の事柄が琉球沖縄の通史を通してつながっていくという過程も一つの勉強ですね

[森]     そう見ることで、例えば、今の基地問題もどう見えるのか、沖縄の人が現在言っていることがどう考えられるかという視点も変わってくると思うんですね。そういうふうに長いスパンで見てみると。基地問題は沖縄の問題で、新基地建設についても基地反対派のごく一部の人だけが抗議しているみたいに受ける学生もいるけど、今までどういうことがあって、どうして現在に至るまで基地問題があるのかを丁寧に追っていく。そうすることで、辺野古や高江への新基地建設に対して沖縄の人がどんな考えを持ち、言い表すことのできない複雑な感情を抱いているのかということにようやく思い至ることができ、他人事ではなくなってくる。現在の問題も長い歴史的スパンの中に位置づけて、理解できるようにするということは、授業を組むときに特に考えていることです。

[佐藤]     あと、沖縄の歴史をみることで、沖縄だけじゃなくて、世界のいろんな地域との関係が見えてくるというか。証言集の中でもそうですよね、朝鮮や台湾、島の人たちの全部の社会の繋がりが見えてくる。

Professor Mori on Zoom

[森]     そう、それがおもしろいし、沖縄の人たちの生きる中で培ってきた力はそこにあると思うので、いろんな地域の人との関係性をつくりながら、「沖縄」っていうものを作ってきた、それをうまく学生に伝えられたらいいなと思っています。

[佐藤]     私も日本語のクラスに沖縄のことを話にいったりするんですね。中国からの学生なんかは、琉球王国のことを聞いたことがあるって言って、沖縄の本を見に来てくれるんです。私は通史は教えられないですけど、中国と沖縄の繋がりが昔はどうで、今どうなったかというのを意識してもらうだけでも意味があるのかなあと思うんです。そういうことを調べるときに助けになるようなコレクションにしているんですけど。

[森]     コレクションのサイトを見ると、もう沖縄の織物だとか色んなトピックの情報が集められているので便利なサイトだなと思います。沖縄戦の証言に関しても、沖縄平和祈念資料館だとか、NHKアーカイブだとか全然知らなかったので、ためになります。ちょうどこれから授業で沖縄戦や沖縄戦後の話をするので、学生たちに紹介しようと思っています。アメリカにこういう場所があるということ自体が、沖縄の歴史と現状を物語っていると思うので、それ自体がすごく面白いなと思いました。あと、アメリカでなされている沖縄研究の発信サイトなんてあったらいいなと思いました。

日本の利用者として見ているので、アメリカの沖縄研究者の出版物、論文を紹介するページがあるだけでも助かります。なぜかというと、日本で沖縄研究をしている人と、アメリカで沖縄研究をしている人との交流があまりないんですよ。アメリカの沖縄研究者は日本の沖縄研究をフォローするけれども、自分を含め、日本の沖縄研究者が海外の沖縄研究者のことをあまり知らない。よく調べて見れば結構いらっしゃるのに、研究の交流ができていないというところが惜しいなと思って。そういう意味で、アメリカにおける沖縄研究が発信されていると日本の側から見るとすごく魅力的なページになると思います。

[佐藤]     なるほど。フィードバック、ありがとうございました!

 

(1)   ^  沖縄の言葉で「おしゃべり」の意味。

(2)   ^「インヌミ屋取」とは、外地から沖縄に引き揚げた人たちが最初に収容された場所。沖縄市内にあった。